「能登珠洲沖地震に関して」

余り聞きなれない名称では在るが、「日本海東縁変動帯」と言う理論が存在する。

日本列島が形成された時期に存在していた古いプレートが沈み込んで、その上から「北アメリカプレート」〈オホーツクプレート〉が押し寄せ、日本列島の北半分がこのオホーツクプレートに乗った状態となっている。

2011年に発生した東日本大地震は、このオホーツクプレートの下に潜り込む「太平洋プレート」に圧されたオホーツクプレートが反発した結果生じた。

これに拠り日本列島の北東部が50mも太平洋側に揺り戻し運動を起こしたのである。

このオホーツクプレートの西の境界線が、日本海の北東部沿岸付近に在るものと推定されたが、その根拠は北海道西部海域から新潟県沖まで、ほゞ直線状に大きな地震が発生していた為であり、特に1983年に発生した日本海中部地震に鑑みるなら、オホーツクプレートとユーラシアプレートが衝突する境界線を、北海道南西沖海域から新潟県沖を通って、能登半島東部先端をかすめる形で、大地溝帯〈フォッサマグナ〉に続く形が、最も整合性を持つと考えられたからである。

またこの日本海側に存在するプレート境界線は、その延長方向として琵琶湖から神戸、島根県に及ぶ構造線〈NKTL〉と何らかの関係が在ると考えられているが、具体的な力学関係は分かっていない。

オホーツクプレートとユーラシアプレートの境界付近の関係は、ユーラシアプレートがオホーツクプレートの下に潜り込む形になっているが、現段階ではその潜り込みは浅く、地形的な特徴を現していないが、200万年後くらいから、はっきりと海溝地形が発生するものと見られている。

「日本海東縁変動帯」とは、このオホーツクプレートとユーラシアプレートの日本海側境界に沿って連続する断層帯の事で在り、この南部収束域が、恐らく能登半島東部海域と推定され、2019年から連続していた能登半島の群発地震が、フォッサマグナ内で発生する群発地震と傾向が似ていた事、2023年5月5日、同地に発生した震度6強の地震発生メカニズムを推定するに、2011年に発生した東日本大地震の影響を排除できない。

東日本大地震以降継続している太平洋側からオホーツクプレートを圧す力が、日本海側でユーラシアプレートから圧される力に何らかの影響を与え、結果として、せりだしたオホーツクプレートの端である能登半島東部に、逆断層を発生させた可能性を排除できないのである。

2023年5月8日、午前10時17分、珠洲市から直線距離で50km離れた輪島市南端地域で、震度1くらいの弱い揺れを観測したが、気象庁の地震計は同地域に設置されておらず、民間の観測に拠って3か所で地震の揺れが観測された。

この微震は5月5日に発生した、珠洲市地震の震源から50kmも離れており、同地震の余震とは区別して考えなければならない可能性が在る。

一番恐ろしいのは、オホーツクプレートとユーラシアプレートの衝突が東日本大地震の影響から強まった、或いは変化して時間的に加速された場合で在り、こうなると日本海東縁変動帯、言い換えれば北海道奥尻、日本海中部、新潟県、能登半島、長野県で震度6以上の地震が連続する恐れが出て来る。

またそうでなくても、5月5日の珠洲市の地震とは異なる震源で再度、能登半島か新潟県中越で震度6クラスの地震が発生する可能性が出て来る。

このブログの「宏観地震予知資料室」では2023年3月30日の記事で能登半島で震度6の地震発生の可能性と、それに次ぐ可能性として新潟県中越地方、それから1年後まで何もなければ、太平洋側の大きな地震の可能性を記事にしていたが、どうやら先の5月5日の珠洲市の地震が終わっても、こうした可能性はまだ変わっていないような気がする。

万一、オホーツクプレートとユーラシアプレートのプレート境界型地震の傾向が在る場合、5月5日の珠洲市の地震は何か大きなものの始まりに過ぎないかも知れない。

能登地方の方々、新潟中越地方の方々は今後1週間ほどは、くれぐれも注意してお過ごし頂ければと思います。

末尾ではございますが、能登半島珠洲市の地震に関して、亡くなられた方には謹んで哀悼の意を捧げますと共に、被害に遭われました方々には心よりお見舞いを申し上げます。

「人面瘡」

「ご主人様、止めてください」
「良いではないか、悪いようにはしないぞ」
「あーれー」
「むふふふふ・・・・」

と言う訳で女房に隠れて下働きの女に手を付けてしまった反物問屋の庄左エ門、やがて女と関係を続ける中で、今度は女から女房にばらすと脅され金を要求されるようになる。
婿入りの立場で女房に浮気がばれるのは如何にもまずい、かと言ってだんだん図々しくなる女の言う事を聞いているのも厳しい・・・。

「仕方ない、殺すか・・・」
で、女を殺して離れた山の中に埋めたが、どうやら事の次第は発覚する事無く時が過ぎたある日、股の付近に腫物ができてきて、それはどんどん大きくなり、やがて人間の顔のようになってくる。

口と思しき部分からは時々誰かが呟くような声が出てきて、試しにそこへ飯を入れてみると、その腫物の顔は飯を食べ、酒を入れるとそれも飲んだ。
そして次第に何か食べさせないと自分の呼吸が苦しくなり、腫物の顔は「いいのか、女を殺した事をばらすぞ」と庄左エ門を脅し始めるのである・・・。

これが「人面瘡」(じんめんそう)である。

慶長から元禄の初め、江戸時代初期と言う事になるが、京都出身の僧「浅井了意」が記した「伽婢子」の九巻に出て来る「人面瘡」が一番広く知られる記録となるが、平安時代前期から既に伝承としては発生していた「人面瘡」、現代解釈では皮膚硬化症の一種、或いは化膿した皮膚の表面が人間の顔に見えたものとされている。

そして江戸時代には浅井了意を初めとして、この「人面瘡」をモチーフにした奇譚、怪談が数多く書かれ、一つの奇譚区分が形成されるに至ったが、その背景は幕府に拠る色恋沙汰話の締め付けを怪談噺にして逃れた経緯が一つ、もう一つは幕府の統制主義に拠って発生する理不尽、つまりは幕府の政策による理不尽を怪談噺に拠って仕返しする、憂さを昇華する意味合いが存在したものと考えられている。

それゆえ「人面瘡」は殺された女や身分の賤しい者が祟り、それに拠ってその殺した側の人間、または親族の体に人間の顔が現れ、食べ物を食べたり、言葉を話したり、時には毒を吐き出して人を罵倒するなどの話が多いのであり、この傾向は平安時代から既に始まっていたが、平安の「人面瘡」にはもう少し範囲の広がりが存在する。

恨む側の方の範囲が人間だけに特定されていないのであり、例えば鹿などの獣、虫までもが理不尽な目に遭った時の祟りとして、体にその獣や虫の顔が浮かび上がらせる伝承が存在するのである。

尤もこうした伝承の多くは平安時代の記録ではなく、平安期に存在したとされる話の伝承が江戸末期から昭和初期に記録されたものが多い為、必ずしも平安時代を正確に反映しているとは言い難いが、それでもこうして祟りの方向が女だけではなく、生物一般に及んでいた事に鑑みるなら、平安時代には原形儒教、道教の影響が多少残っていた事が覗い知れる。

だが面白いのはこうした「人面瘡」の話は平安時代から既に存在し、近代の明治、現代の昭和前期まで話として時々出現して来た事で有り、推定ではあるがその2割ほどが「人面瘡」の浮かび上がった疾患部位が男性の股の近辺と言う点である。

つまりどの時代を通しても女の恨みは深く、また男は女に恨みを抱かせる事をし易いと言う事なのかも知れない。

また世界的には2000年以降も各地でこうした「人面瘡」の話が出現して来ているが、何も顔が浮かび上がるのは人間だけではなく、古くは中国で椿の木の幹に人間の顔が浮かび上がった記録が有り、馬や鹿の体にも人間の顔が浮かび上がった記録も残っている。

更には人間に浮かび上がる顔も、必ずしも人間ばかりとは限らず、カエルや蛇などの爬虫類から蛾の斑紋、狐や猪、牛などが人間の体に浮かび上がった伝説も残っていて、人間の顔が人間の体に浮かび上がった時の、その浮かび上がった顔面の男女比率は僅かに男が多い。

女の恨みでも「人面瘡」として浮かび上がる顔は男の顔と言うケースが少しだけ多いからだが、これが昭和初期の話になって来ると、例えばカエルに小便をかけた少年の体にカエルの顔が浮かび上がってきたと言う話が出て来るのであり、もう少し進んでバブル経済の頃には若干ニュアンスは異なるが、鯉の顔が人間の顔のように見える「人面魚」、或いは胴体は犬で顔が中年の男性の顔と言う「人面犬」などの都市伝説に及んで行ったとも考えられるのである。

奇妙な現象だが、その昔平安時代の言い伝えと言われる話の中には必ずしも女の恨みと関連付けされない「人面瘡」や、特に何かの因果関係を持たずして発生する「人面瘡 」の話が存在する点で、この意味では昭和以降の傾向、つまりは恨みや特定の因果関係を持たない「人面現象」と近いのである。

道教、儒教に取り込まれて行った仏教、その仏教がやがて儒教を絞った形で取り入れ、この儒教がやはり仏教を絞って行く過程が日本には存在し、儒教と仏教の概念は歴史が浅くなるに従って概念が小さくなって行き、今日の日本では儒教、仏教の原始形概念は失われている。

この失われた状態と原始儒教の時代が同じ傾向を発生させている事は大変興味深いところと言える。

そしてもう一つ言える事は、フラクタル同調であり、例えば蛇のクネクネした形は川の流れに似ていたり、人間の手とどことなく近い植物の葉が有ったり、ダイコンやゴボウの奇形には人間の下半身を思わせるものが存在するのは「自己相似性」と言う原理に拠るものと考えられていて、同じ原子や分子で構成され、地球と言う同じ環境の中で発生するものは、大まかには似た形になり易いと言う事である。

人間は生活していく中で、毎日あらゆる顔との遭遇で生きている。
この為、3つの点が存在すれば比較的容易に自分が知る何某かの顔に関連付けてしまう傾向に有り、これに自然界が持つ自己相似性が重なる事から、自然の事象でも顔の図形はポピュラーな形なのである。

人面は天空の雲でも出現例が多く、樹木や板の木目、紙のシミ、水、「人面瘡」などの化膿した傷口など、あらゆる場に自然の状態でも出現し易い形なのであり、この自然出現率は、例えば真四角や真円などの幾何学形の出現率の数億倍の確率を持つかも知れない。

ちなみに「浅井了意」の記述に拠れば、「人面瘡」の治療には結構な金がかかる事になっている・・・。

「白日夢」

第二次世界大戦中のイギリス首相「SirWinston Leonard Spencer-Churchill」(ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル)は「民主主義は最低だ、だが人類はこれ以上の方法を持たない」と言っていたが、全く同感だ。

民主主義は確かに最低だ。
だがその一方例えば完全な方法を100とするなら、人類全体の妥協点を探った場合、限界が10までだったら民主主義はこの10かも知れない。

長い年月試行錯誤を繰り返して苦労に苦労を重ねて築き上げてきたものである事もまた事実である。

そして民主主義は一つの思想であり、その本質は形を持たない。
言うならば「心得」(こころえ)程度のものであり、実際の運用や施行などの手法はその該当年代や民衆の意識に拠って変遷するのが妥当かと思うが、ここで民主主義を固定的、絶対的なものと考えるなら現実の運用は未来永劫変化できず、為に現実の大衆意識と乖離する。

また民主主義に限らず、あらゆる思想は長く続けていると現実の前に例外を増やし、本来の意義を拡大させ、思想の濃度を希釈する。
つまり思想を形骸化して失わせる方向へと動く為、機械の部品のように一定の時期が来たらナットを締めなおしたり、或いは部品の交換、もっと言えば新製品に買い換える作業が必要になってくるが、人類と言う生き物はどうも民主主義だの平和、自由、平等と言う事になると、この形すら見えないものを絶対的と思い込んで、部品の交換や新製品の買い替えは考えないようだ。

日本の公職選挙法の基礎は太平洋戦争前の制度にGHQが細則を付け加えた程度のもので、よしんば太平戦争終結後を新法としても、既に施行から70年が経過している。
もはや日本の民主主義は手続き重視の形骸となってきていて、現行の選挙制度では国民の意思を反映できない状況になってきている。

2016年7月10日投票日の参議院銀選挙に措ける国民の関心は極めて低く、本来なら憲法改正、経済対策、行財政改革、少子高齢化、災害対策復興など多くの議論を要する争点が存在しながら、立候補者の大方は与野党含めて月並な「国民の生活重視」を訴え、それも面倒なら候補者の名前が連呼されるだけ、地域に拠っては候補者も政党関係者も来ない、どの党の誰が立候補しているかすら、住民の大半が知らない状況が出てきている。

民主主義は結構な事だが、箱に腐った林檎しか入っていなければ、どれを取っても腐食してどろどろになった果肉で手が汚れるだけである。
民主主義の前にその材料すら揃っていない状態では民主主義など成立しようもない。
民主主義と言う本質が抜け落ちた「手続き」、餡が入っていないアンパン状態が今回の参議院選挙と言うことが出きるだろう。

この改善策は2つ、まず一つ目は定数至上主義の廃止だが、予め定数が決定していると上位当選者の獲得票に拠っては低い獲得票で民意の多数決の原則から外れた者が当選する確率が出てくる為、例えば有効投票数を立候補者の数で割って、その平均得票数を割り出し、これに満たない者は全て落選とする方式を採ると、定員に及ばない場合が出てくるが、こうしておけばもう少し立候補者とそれを選出する地域の真剣味は増すだろう。

また比例代表は基本的に廃止すべきだ。
政党政治は民主主義にはならないし、これに伴って政党助成金制度も廃止すれば国民負担は軽くなり、手続きも簡略化できる。

そしてもう一つは選出型選挙の見直しであり、排除型選挙を実施すれば投票率は格段に向上する。
国政選挙の立候補資格は戦後大幅に改善されたとは言うものの、それでも供託金の300万円を用意しなければならない実情に鑑みるなら、戦前の一定の税を納付していなければ立候補資格が無い形態とそう大きな変化が無い。

この供託金を10万円にまで引き下げ、25歳以上であれば誰でも立候補出来るようにして、今までの公職選挙法を緩和する。
10万円の供託金は当落の有無に関係なく返還せず、これをテレビの政見放送に充当し、ネット活動の規制も無くし、一件が300円以内なら候補者の名前や写真が入った景品の配布や、戸別訪問も出来るようにすれば頑張る候補者はきっと頑張るだろう。

その上で選挙ポスターの掲示板は廃止する。
あんなものを見て候補者を選ぶなど時代遅れも甚だしく、有権者は誰かを選ぶのではなく、この者だけはだめだと言う候補者の名前の下に丸を付け、これは複数可能にして措けば良く、やはり有効投票数の平均以上の排除票を獲得した候補者は落選と言う形にしておけば、もう少し民意は反映されるだろう。

そしてこの場合も定員割れは発生するが、必要の無い者まで定員と言う恩恵に浴して国会議員を続け、国費でこれを養うなど、この日本の実体経済では既に許されないのでは無いだろうか・・・。

人間は他者の良い部分を探すより悪い部分を探すに長けている。
それゆえ自然な状態なら選出という形態は数が少なくなり、これを定員と言う枠で保護すると、この時点で民意は干渉を受けた事になる。

自然な状態で排除選挙法を実施するなら、自然に排除される方が多くなる事から、何もしなくても最低限しか選ばれない。
これは一種の規制緩和による選挙制度の改革だが、一つ言える事は、規制緩和とは既存に行政が持っている権益が分散されて個人に帰ってくる事を意味する。

民主主義だから良い政治になるとは限らない事、民衆が政治意識を持たないと、手にした規制緩和は民衆の側に重い責任となって帰ってくる事を忘れてはならないだろう・・・。

草刈を終えて昼寝をしていたら、ちょっと白日夢を見てしまったらしい・・・・(笑)

[本文は2016ねん7月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「パズル」

少し前の事だが、田の水を見て家に帰ろうと県道を歩いていたら、もうすぐ家に着こうかと言うところで、道の真ん中に蛇が横たわっていて動こうとしない、遠くからは自動車のエンジン音が聞こえてきて、と言う状況に遭遇した。

体長60㎝ほど、シマヘビにしてはまだ若い、「今ここにいては死んでしまうぞ、せっかく生まれてきたんだから、もう少しこの世を楽しめ・・・」
私は心の中でそう呟くと蛇を掴んで近くの土手に逃がした・・・。

そして蛇を逃がした後で、「しまった、ここは家の近くだ、もしかしたら納屋のツバメたちがやられるかも・・・・」と思ったが、既に蛇は土手の藪の中に姿を消してしまっていた。

一週間後くらいだろうか、昼間、納屋の二階を仕事場にしている私は、階下でツバメ達が警戒している時に発する激しい鳴き声に階下の様子を見に行くと、なんでこんな所にと思わずにいられないドアのすぐ上に巣をかけていたツバメの、その巣を囲むように蛇が巻き付き、4羽いたヒナの内1羽は呑まれたのだろう、蛇の腹が大きく膨らんで、もう1羽は足が巣に引っかかって宙吊り状態、もう1羽は巣から落ちて近くに置いてある肥料の袋のそばで震えていたのだった。

「ああ、やはりやられてしまった・・・」
私は蛇を逃がした事を後悔しながら、蛇の首を掴んで巣から離し、今度は土手ではなく反対側の田んぼの方へ行ってもう一度逃がした。

長さと言い、模様と言い、私が1週間前に助けた蛇だった。
蛇を殺す事はたやすい・・・。
だが自身の一時の感情や価値観で一度決めた事を動かすのは、どうも自分が許せない。

蛇を逃がした後、宙吊りになっているヒナと土間に落ちてしまったヒナを巣に戻した私は、他のツバメの親たちが出入りしている窓から遠かった為、このツバメ達の為に少し開けていた渡り廊下の戸を閉め、もう蛇が入って来れないようにした。

だがそれから4日後の事だろうか、また昼過ぎくらいにツバメ達の警戒する鳴き声がこだまする・・・。
行ってみると2羽残っていたヒナの内1羽が既に半分ほど蛇に呑まれた状態、そしてもう1羽は行方不明だった。

やはり同じ蛇だった。
しかも閉めていた戸は開いた状態だったが、右半身が動かない父親が杖をつき乍らもリハビリのために外へ歩きに行って帰ったおり、やはり出入り口の窓から遠いこの巣を不憫に思い、近くの戸を開けていたのだった。

私はもうダメかも知れないなと思ったが、それでも蛇の頭を掴むと、どうにか半分呑み込まれたヒナは助け出す事が出来、蛇ももう一度田んぼ側の土手に逃がして家に帰ってきて、ふと下を見るともう1羽のヒナが今度は肥料の空き袋の陰で震えていた。

「良かった、お前も何とかなったか・・・」
指にしがみつくそのヒナも巣に戻そうとしたら、何とこの前2羽呑まれてしまったと思っていたが、どうやらもう1羽が巣の底に潜んでいて助かっていたらしく、小さな巣には3羽のヒナが不安そうな顔をしていたのだった。

私は何となく、ツバメ1羽が儲かったような気がした・・・。

またくだんの蛇もまだ未熟と言えば未熟だ。
鳥を襲う時は自身の天敵も少なくなり、鳥も寝ている夜に襲うものだ・・・。
それを昼間から襲う、その経験の無さに若さを感じてしまう・・・。

そしてこんな時、私は自身存在の罪と恐ろしさを思う・・・。
良かれと思って為した事でも、それが他の何かに対しては禍となる事も有り、この結末の全貌を全て知る事は出来ない。

自分が為した事「因」の結末「果」のすべては自身が見る事の出来るものが全てとは限らず、むしろ自身が知る事が出来るものの方が少ない。

にも拘らず、その瞬間自分が良い事をした思う満足感の為に、それまで動いていて、その先もそうなるだろう事を自身が動かして変えていく事、その責任を全て自身が負う事も出来ず、何か自身以外の者が責を負う結果となるを心底恐れ、こうした人間の在り様が複雑に絡み合ったこの世を恐れる。

時々自分がいなければ、この世はその存在しない分だけ円滑、或いはまともに動いて行くのではないかと思う時が有る。
存在の罪悪を思う時が有る。

しかし全ての生き物はこうして功罪を絡み合わせて存在し、あらゆる場に隙間なく、まるでパズルのようにはめ込まれて、欠けた破片が出ればその分他の者が時を置かず待っていたように隙間を埋める・・・。

後1週間、この期間さへ何とかなれば、あの巣のツバメ達は大空に飛び立つ事が出来る。

若い蛇の命を惜しんだ結果が1羽のヒナを殺し、他のヒナも危険に巻き込んでしまった。
せめて残りのヒナだけでも何とか飛び立たせてやらねばと思う・・・。

天意を動かした者は、それを背負わねばならないような、そんな気がする。

[本文は2016年7月7日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「泥船」

現状の日本国債の流れは、その大部分が日本国内の銀行に買い取られ、銀行に買い取られた国債を更に日本銀行が買い取る仕組みになっている。

日本政府が国債を発行し、それをすぐに日本銀行が買い取ってしまうと、これは明確に借金する本人が紙幣も印刷すると言う、通貨を蔑ろにする行為になる為、一度民間の銀行に迂回買い取りをさせているが、本質は泥棒が警官をやっているのと同義である。

本来日本銀行などの中央銀行は強い独立性が求められるのだが、日本銀行総裁の地位は立法府承認ではあるが、現実は国会の多数を占める与党の中枢、行政府の長で有る内閣が決定権を持っていると言え、こうした事から日本銀行総裁は政府の意向をある程度反映し易い人選となり、現在の黒田日本銀行総裁にまで至ると粗政府が日本銀行を支配している状態と言える。

その上で日本銀行は全国の銀行のトップとなる訳だから、政府与党から日本銀行、全国の銀行は一つの船に乗った同じ方向性のものなのであり、日本銀行は民間銀行に国債を買い取らせ、利子に拠る利益を与え更に買い取りを行うのであり、これは究極的には国民から金を集めて一般銀行に利益を与えながら借金を増やしているに等しい。

唯、こうした背景から日本の国債は海外への流出は少なく、対外債務が無い分国際的な信用は債務が流出している国債よりは強く、これに国際収支が黒字に動けば簡単に円高基調になる。

しかし国債が海外に流出している状態と言うのは、その分が国債を買っている豊かな国の損失となる事から、国家の損失と言う意味では対外債務は自国防衛の手段としての効用は大きく、これを国内で回している日本は損失を全て国民が被る事になる。

日本国債への影響と言う観点で言えばイギリスのEU離脱などそう大きな問題ではない。
むしろ三菱東京UFJ銀行のプライマリーディーラー資格返上の方が日本銀行に取っては衝撃だっただろう。

与党から連綿する大護送船団から大佐クラスの将校が一人、「馬鹿らしいから辞めます」と言われたのだから、政府や日本銀行の威光がここまで軽くなってきた現実を思い知ったはずである。

日本がイギリスのEU離脱に伴う円高基調をコントロールする術はもう皆無になった。
これ以上金融緩和を行い金利のマイナスが深くなると、三菱東京UFJ銀行以外の銀行も損失をカバーし切れなくなり、プライマリーディーラー資格返上の動きが出てくる可能性が高くなる。

国債のマイナス金利をカバーしてやるだけの他の手法は存在せず、予算もないのでは市中銀行は国債を買えば買う程損失が増え、もはやそれは優遇ではなく押し付けになって行く為、日本銀行はこれ以上のマイナス金利政策が採れない。
採ったとしても僅かなもので限界が有り、そうした中途半端な政策は必ず後日水泡に帰するものとしかならない。

またこうした資金不足を補う方法として増税と方法も有るが、既に消費税増税は先送りが明言され、これをして参議院選挙が戦われる以上、選挙が終わったらすぐに増税では衆議院選挙で与党の大敗は必死になり、この程度の増税ではもはや手遅れだ。

アベノミクスと言う詐欺的政策は確実に失敗に終わり、日本は借金を増やして更に景気が冷えこむ状態になり、こうした状況では大幅な税制改革に拠る大増税と言う手法など使えば日本経済は一挙に収縮する。

そして安部政権の3本の矢の最後、行財政改革だが、日本が採れる最後のチャンスがこれなのだが、国会や地方議会の定員の大幅な削減、地方公務員を含めた公務員の大幅削減と支出の削減は、せいぜい出来ても新規採用を抑えるくらいでしかなく、これではとても間に合わない。

一方人口動態が高齢化した現状では、年金制度や健康保険制度の大幅改革もできない。
できる事は年金支給年齢の引き上げくらいのもので、選挙権の中で高齢者が占める割合が大きい日本社会は、選挙制度が在る限り、高齢者扶養費用の大幅削減を口にはできない。

その上に日本は確かに国債を海外へ流出させていないから対外債務は少ないが、例えば国連やIMFへの拠出金、対外援助資金や広義ではオリンピックなども、現実には海外と約束した資金の拠出であることから、債務と同等のものだと言う事が忘れられている。

これらは例えば今年の夏大きな台風や水害の被害を受け、更に各地に大きな地震が頻発して関東や東海が地震に拠って甚大な被害を受けても決して猶予できるものではない、国家の威信と言う債務なのである。

こうした影響が最初に出て来るのは「地方」であり、国家予算が借金返済で不足し、地方経済は衰退、加えて一番最初に福祉関連費用が底を付き、次いで水道などのインフラの整備維持費用などが不足してくる。

生活保護費用と健康保険税制がまず維持できなくなってくる上に人口は高齢化、少子対策に回せる金など皆無で有る事から、こうした補助事業は打ち切られ、オリンピック施設建設で費用が高騰した建設現場では費用見積もりが現実と乖離し、災害復旧工事の入札に誰も参加できないと言う事態が訪れる。

しかもこれはそれ以後に訪れるものの始まりでしかない・・・・。
中々面白い事になってきた・・・・(笑)